町会の活動は町内に住んでいる方たちのボランティア活動によって支えられています。江戸時代の江戸では町内の安全を守るために町民が安全・安心のために自身番を置き自治を確立していました。
例えば、落語の二番煎じ(原話は元禄3年)には風の強い日に町内の旦那衆が火の番の夜回りをすることが語られています。江戸の町はボランティアで支えられ成り立っていたとも言えます。天沼尚和会でも1年を通してワンワンパトロールをしています。冬場は火の用心のためのパトロールをします。江戸の時代から現在までボランティアは継続しています。この火を絶やさないためにボランティアについて考えてみませんか。
ボランティアって、なに?どんなことをすればいいのだろう・・・どうやって始めたらいいかも、よくわからない・・・という人がいるかもしれない。
ボランティアと言っても、本当にさまざまで、海外の難民キャンプで活動する人もいるだろうし、地域の区民センターで活躍する人もいるだろう。自分も、少しは人の役に立ちたい、人の喜ぶ顔が見たい、世の中の役に立ちたい、地球に優しくありたい、などと思う人であれば、必ずそのチャンスが訪れるだろうと思う。
電車の中で、高齢者や妊婦さんが席を探している場面に遭遇するかもしれない。エレベーターやエスカレーターのない場所で、ベビーカーを押すお母さんの困った顔を見るかもしれない。そんな時、もしかして自分にもお手伝いができるかもしれない・・・そう思う気持ちがあれば、もうボランティアの入り口に立っていると思う。その時、勇気を出せなくて行動に移せないかもしれない。けれども、大丈夫!そう思う気持ちさえ持ち続けていれば、必ず次の機会が訪れると思うのだ。難しく考えることはない。ボランティアを始めるきっかけは、私達のすぐそばに、たくさんあるものなのだ。
ボランティアは、大きく分けて5つに分類されるそうだ。
難民への支援など、国際的な活動のこと。
若い君たちが今すぐに海外へ出向き、支援活動を行うのは難しいだろうが、もう読まなくなった本や、着なくなった服などをボランティア団体へ送ることで、間接的な支援活動ができる。
私たち人間や、その他の生き物を取り巻く自然や生活環境を守るための活動のこと。君たちが暮らす地域の掃除や、近くを流れる川をきれいに保つようなお手伝いなども、この活動に分類される。
地域を基盤に環境を整え、お互いが支え合って快適な地域生活ができるように努める活動のこと。地震や水害などの災害ボランティアも、この地域作り活動のひとつ。街の細かな場所をも知り尽くしている君たちなら、友達と街の便利マップを作ることもできる。
遺跡の発掘や、文化財保護などの活動など、文化的教育的な活動のこと。君たちが、学校の校庭開放や児童館で、小さい子どものお世話をする場合は、この活動に分類される。
高齢者福祉、障害者福祉などにかかわるボランティア活動のこと。老人ホームを訪問したり、障害者センターなどでのお手伝いの他に、使用済みのテレフォンカードやプリペイドカード、書き損じのハガキを集めて、それらをボランティア団体へ送ることも、この活動に入る。各団体は、それらをいろいろな方法でお金にかえて、老人ホームなどの施設をつくるための資金にしたり、車いすを購入したり、労働力を派遣する資金にしたりする。
君たちの中には、知らず知らずのうちに、すでにボランティアを経験している人もいただろう。そう、ボランティアは、私達の身近なところに存在するものなのだ。そうでない人も、きっと仲間と始められそうなことが見付かったのじゃないかな?
ここでちょっと、「ボランティア」という言葉の始まりについて触れてみよう。世界で、ボランティア活動という言葉が使われるようになったのは、17世紀からだといわれている。しかし、ボランティアという言葉が生まれるよりずっと以前から、私たち人間は、社会生活の中で人々と共に助け合って生きてきた歴史がある。
ボランティアという言葉が生まれたのは、1640年代のイギリスであったといわれている。当時のイギリス社会は、失業者たちが多く、国中が荒れていた。そのため、自分の住んでいる街は、自分たちで守らなければならなかった。そこで生まれたのが「自警団」。そして、参加した団員をボランティアと呼んだのが最初だと伝えられている。
自警団員をボランティアと呼んだ理由は、2つ。ひとつは、自分からすすんで街の呼びかけに応じた人という意味であり、もうひとつは、「善意や正義をもった人」という街を守ってくれる団員への敬意の気持ちを込めたといわれている。
ボランティアという言葉は、「自由意思」を意味するラテン語のボルンタス(Voluntas)といわれている。これが、フランス語では、ボロンテ(Volonte)。英語では、ボランタリー(Voluntary)。これに人を表す「er」をつけて、ボランティア(Volunteer)というようになった。
前項でも触れたが、ボランティアという言葉の誕生が、17世紀。1640年代のイギリスでのこと。荒れた社会状況の中で、自ら志願して自警団の一員となり、自分たちの街を守ってきた人々の活動があった。
18世紀になると、世界に広大な植民地をもつようになったイギリスは、植民地に配置する軍隊が必要となった。そこで、志願兵を募集し、これに応募して自衛兵士となった人を「ボランティア」と呼んだ。この頃のイギリスでは、ボランティアとは、「志願兵」「義勇軍」のことを指す。
一方、フランスでは、「国家は、各人の自由意思に基づく社会契約によって生まれた」とルソーが述べ、このような場合の「自由意思」にボロンティ(Volonte)という言葉を用いたといわれている。この頃のフランスでは、ボランティアとは、「自由意思」という意味。
19世紀、アメリカでもボランティアという言葉が用いられるようになった。1896年に「Volunteers of America」という社会福祉活動を行う民間団体が生まれたてからだといわれている。この団体は、「宗教や政治や思想に関係なく、市民の善意に基づく救済活動ができる団体」という願いを込めて「ボランティア」という言葉を名称に含めたといわれている。
この頃のアメリカでは、自発性や善意という意味合いよりは、(宗教的、政治的、思想的に)「抑圧されない自由意思」という意味で、ボランティアという言葉が用いられた。歴史の中で、「ボランティア」という言葉は、時代や国の違いで用いられる意味が違ってくる。それぞれの時代、各国での思想や社会状況による、市民活動の違いの表れなのであろう。
参考文献:「ボランティア論 共生の社会づくりをめざして」中嶋充洋著/中央法規出版
日本では、古くより五人組・町内会・自治会・消防団など、地縁や血縁による強固な結びつきがあった。互いに助け合う習慣があったため、外部からのボランィアを必要としなかった。
落語の小ばなしに、こんなのものがある。ある夜、町内の男たちが、夜まわりを始めた。マッチ1本、火事のもと・・・のアレである。あまりの寒さに手もかじかみ、仲間たちと謡曲や浪花節調で町内をめぐり歩き、やっとのことでつとめを終えて戻ってくる。火のまわりに集まると、それぞれに持ち寄った酒、鍋で体を暖める・・・とある。
オチは、別にあるのだが、当時江戸の人々の暮らしぶりが見えてくる。自分の町を、仲間といっしょに歩き、そして守る。寒さに震えてやっと戻った番所では、仲間と酒や鍋で体を暖め、さらには、きずなも深めていくのだろうか。
日本では、ボランティアという言葉が用いられるようになるずっと前から、人々が支え合って暮らす仕組みがあった。江戸の町も、人々のボランティアで支えられていたといえるのではないだろうか。
ひとつに、1989年アメリカ・サンフランシスコ大地震がある。NGOの支援を受けて、志願した大学生を中心に38人のボランティアが現地で活動をし、日本の国際的な災害援助活動として大きな意味があった。その後、1990年雲仙普賢岳の噴火、翌年の湾岸戦争にも、多くのボランティアの活動があった。
そして、1995年の阪神・淡路大震災。全国から大勢のボランティアが被災地に駆け付けたことから、「ボランティア元年」とも呼ばれている。
参考文献:「ボランティア・NPOの組織論」田尾雅夫・川野裕二/学陽書房 │ 増補 落語事典 東大落語会「編」青蛙房
ボランティアのいいところのひとつに、仲間ができる・・・というのがある。もしかして、わずらわしいと思う人もいるかもしれないが、これが、けっこう楽しい。学校などでは、年齢の違わない友達と過ごすことが多いと思うが、ボランティア仲間の場合は、違う。若い君たちだったら、両親と同じくらいの年齢の人や、祖父母ほどの年齢の人もいるかもしれない。同じ志を持った違う世代の仲間は、とても有意義な時間を与えてくれる。
わたくしごときで恐縮ですが、若い時に違う世代の仲間がいる集団に身を置いたことが、その後の人生に強く影響している。もちろん、いい方に!全く違ったバックグランドを持つ、世代の違う仲間。視野が広がり、気づかぬうちに、いろんなことに対応できるようになっていったように思う。違う世代だからこそ許し合えることも多かった違いない。大抵の場合、許してもらっていたのだが(笑)。人間関係そのものを、こうしたことから学んだように思う。
ボランティアは、対象となる人や環境の役に立てることの他に、仲間や友を得る場と言っても過言ではないように思う。
ボランティア・・・最初は、戸惑うことも多いと思う。なぜなら、結局のところ、ボランティアは、人間関係そのものだから。(相手が自然だったりする場合もある!)正しい答えというものがないだろうし、相手が変われば、何もかもが毎回違ったりする。気の合う人がいれば、そうでない人もいるように・・・。
お役に立ちたい!と思う気持ちが強くあっても、相手の望むこと、望む方法は、すぐには、なかなかわからない。時間がたっても、わからないことも多い。でも私は、そのことで、あまりうつむかない様にしている。相手が、何を望んでいるのか?どういった方法でお手伝いしたらよいのか?そのことに気持ちを寄せていることは、相手に伝わることだってある。正直、それだけじゃダメなこともあるが、そんな時は、自分の中の思いやりのスキルが、少し上がったではないか!と自らを激励して、次につなげるようにしている。
日頃、どうしても自分さえよければ・・・というような、自分の利になるような考え方が身についてる私も、ボランティアに携わっている時だけは、自分の気持ちを、相手の気持ちに集中させるようになる。してもらっているという意識の強い人ほど、ありがとう・・・の言葉の向こう側の本心が、なかなかわからない。そんな時は、相手が私への思いやりを示している時なのだなぁ~と思い、感謝しながらも、またまた相手の気持ちを考える。ボランティアって、お互いに思いやりを感じあえる、素晴らしい行いだと思う。
ちょっと話はそれるが、これこそまさに、恋愛に一番必要な心得じゃないだろうか。若い君たちがボランティアをすることで、恋人ともうまく行く!こんないいことって、あるだろうか!?(笑)うそだと思うなら、是非試してもらいたい。
好きな男の子の両親の耳が聞こえなかった。それで手話を覚え始めたのが、私のボランティアの始まり。高校を卒業してすぐの頃で、遊びやバイト、それからデートにも忙しい日々。遊んでいても、デートの途中でも、「2時間したら戻るから!」と地域の障害者福祉センターで開かれている手話講習会に出席した。とてもとても充実した時間。好きな男の子の両親と、好きなようにおしゃべりが楽しめる日が来る・・・。今まで知らなかったことをどんどん身に付けていく作業、楽しくてたまらなかった。
まるで外語に触れるかのように手話に親しんでいた私は、彼の両親とのおしゃべりだけを目標にして前に進んでいたので、よもや自分がボランティアに関わるような場に身を置いていることに気付かなかった。
手話講習会に通い始めてすぐの頃、彼の家に遊びに行った。彼の部屋でイチャイチャとおしゃべりをしていたら、突然カミナリが鳴り出した。目の前のベランダの洗濯物が目に入り、階下にいるお母さんに、それを伝えた。「お母さん、大変!大変!カミナリがゴロゴロと鳴り出したよ!雨が降るよ~!」身振り手振りを交えながら、なんとか手話で伝えた。「カミナリは、本当にゴロゴロいうんだね・・・」との返事。なんだか、私がカミナリに打たれたようになってしまったのを覚えている。手話が少し使えるようになっても、耳が聞こえないということが理解できない。分かっているつもりでも、本当は、なんにも分かっていないんだ・・・と思ってしまった。
また別の日、彼とビデオを借りて、彼の家で観ることになった。彼のお母さんは、ジブリファンだったので、私は気を利かせてジブリのアニメを借りたつもりだった。お母さんを誘ってビデオを観たかった。(だって私は、日頃アニメを観ないのだから!)なのに、お母さんは、忙しいから・・・と一向に誘いに応じてくれない。彼も、「もう、ええで・・・」とそっけない。仕方なく、私は観たくもないアニメを彼と二人で観た。映画も半ばを過ぎたところで、やっと気付いた。ああ・・・アニメは、字幕がないんだぁ・・・。お母さんが、洋画に詳しいのは、そーゆーワケだったんだぁ・・・。なんだか、涙が止まらなくなってしまった。未熟な私には、障害そのものが理解できないのかもしれないと思った。なにより、字幕がないから観られないと言ってくれないお母さんと、そして彼なのだもの。
私は、手話を覚えるだけじゃダメだということが、だんだんわかってきて、何をどうやって身に付けたらよいのか?悩むようになってしまった。
手話講習会に通い始めて1年も過ぎたころ、彼のお母さんから手紙をもらった。講習会に通うのを止めてほしいとの内容。理由は、私に迷惑を掛けたくないからだという。講習会に通う時間ももったいないし、講習会からの夜の時間帯の帰り道が心配だというのだ。なにより、私に負担を掛けているのがいやだという。
私は、困ってしまった。彼が、手話を全くわからない人だったので、通訳も頼めない。自分が手話を身につけなければ、両親と話もできない。おしゃべりの私には、到底耐えれられない!私が、だんだん手話で話ができるようになり、両親が私に、彼のことを聞いてくるようになった頃のことだったと思う。
両親は、彼に負担をかけまいと、彼にも手話を使わせなかった。彼が、一人っ子だったのも、同じ理由からだと後々お母さんから聞いた。彼と両親は、細かなところまで伝え合う共通の言語を持っていなかったので、両親は、彼のことを全く知らなかった。今日、どこへ行くのか?今夜は、家で食事をするのか?進路をどう考えているのか?お金は、持っているのか?バイトをしているのか?など、とにかくなんにも知らなかった。そんなことを、私に聞いてくるようになり、そこで先ほどの手紙を受け取ることになってしまったようだ。
当時、手話は、私の日常生活にも必要な言語になっていたので(両親以外にも、耳の聞こえない友達がたくさんいたので)講習会をやめることはなかったが、またまた私は、悩むようになった。彼らが、十分に話をしていなかったのは、彼が手話をわからない、という理由からではなかったように感じたから。障害を持つ両親を持った彼。ここであまり詳しく触れられないが、相談できなった理由がたくさんたくさんあったのだと思う。
手話を言語としてとらえていた当初は、悩みもなく気楽で楽しいばかりの毎日だった。その後、手話を通じて、障害や障害者、その家族と、彼らを取り巻く社会、そして私たち健常者、いろいろを感じる機会がたくさんあった。そんな中、素晴らしい出会いに導かれて、自然にボランティア活動に参加するようになっていった。障害を持つ仲間と、ボランティア仲間の両方に支えられて・・・。
二児の母になった今でも、当時見たこと、感じたことは、いつまでも私から離れず、いろいろな場面で私を助けてくれる。育児と仕事がある中で、ボランティアに携わる時間がなかなか取れないのが現状だが、気持ちを持ち続けていれば、いつでも機会に恵まれると思っている。日常の中に、チャンスはたくさんあるのだから。